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同性婚活動と強迫性障害のリアル、僕が心を守りながら続ける理由

ゲイのみなづち(@minaduchi)です。
僕は、同性婚の実現を願って、このブログやSNSで発信を続けています。でも正直に言うと、時々、心が折れそうになります。
その背景には、僕が長く付き合ってきた強迫性障害(OCD)があります。投稿ひとつ出すのに何十回も確認してしまう。批判的なコメントを、頭が勝手に何度も拾い直してしまう。「正しく伝えなければ」と思うほど、動けなくなる。
「活動している人」と聞くと、強くてブレない姿を想像するかもしれません。でも僕は、全然そうじゃありません。僕は弱さを抱えたまま、立ち止まりながら続けている、ただの一人の人間です。
実は、この記事を書くこと自体、何十回も迷いました。弱さを見せたら、発信の説得力がなくなる気がしたからです。でも今日は、鎧を脱いで、その迷いごと書いてみようと思います。
先にひとつだけ言わせてください。それでも僕が続けられている一番の理由は将来生まれてくる子どもたちに、今の僕と同じ思いを味わわせたくないからです。その話も、この記事の後半でじっくり書きます。
この記事は、同性婚の制度や判決の解説ではありません。活動を続けるひとりの当事者の、心の中の記録です。
同じように、活動や発信と心の健康のあいだで揺れている人へ。これは、あなたのための記事でもあります。
本記事では、次のことを正直に書いていきます。
- アンチコメントより手強い、強迫性障害と発信活動が重なる日常のこと
- 心が折れそうになった、忘れられない3つの瞬間
- 僕が同性婚活動を続ける一番の理由(将来の子どもたちへの思い)
- 心を守りながら続けるための5つの工夫
強迫性障害があっても、同性婚を願う活動は自分のペースで続けていい

本記事の結論を先に述べると、強迫性障害を抱えながら同性婚活動を続ける僕のリアルとは、「強い活動家」の姿とはほど遠いものです。確認と反芻に時間を奪われ、たびたび立ち止まり、それでも細く長く続けている。それが等身大の僕です。
意外に思われるかもしれませんが、僕を苦しめているのはアンチコメントではありません。あれは正直、強迫性障害に比べれば「楽勝」です。僕の敵はいつも外ではなく、自分の頭の中にいます。
それでも続けられているのは、根性のおかげではなく心を守る工夫を用意して、無理に頑張らないと決めているからです。
言い換えるなら、「弱いのに続けている」のではなく弱さと付き合う方法を覚えたから、続けられているのだと思います。この順番が、この記事でいちばん伝えたいことかもしれません。
そしてもうひとつ。僕には、折れかけた心を何度も立て直してくれた理由があります。将来生まれてくる子どもたちに、「同性だから結婚できない」という今の僕と同じ思いを味わってほしくない。その願いです。
もしあなたが検索でこの記事にたどり着いたのなら、たぶんあなたも、誰かのために声を上げることと、自分の心を守ることのあいだで揺れている人だと思います。だからこそ、きれいごと抜きで書きます。
活動は義務ではなく、選択です。この記事では、僕の弱さと、折れかけた瞬間と、続ける理由と、心を守る工夫を、順番に正直に書いていきます。同じようにしんどさを抱えながら何かを続けている人に、「一人じゃない」と届いたら嬉しいです。
強迫性障害と同性婚活動が重なる場所で起きていること

僕の強迫性障害は、主に「確認」というかたちで現れます。そして発信活動は、確認したくなるものだらけです。
投稿ボタンを押すまでに、1時間かかる
たとえば、同性婚について投稿をひとつ出すとき。数字は合っているか。誰かを傷つける言い回しになっていないか。誤解される余地はないか。投稿ボタンを押す前に、何度も何度も読み返します。
一度確認すれば済む話だと、頭ではわかっています。でも「もし間違っていたら」という不安が消えません。気づけば同じ文章を10回も20回も読み直して、1時間が溶けていることもあります。公開ボタンの上で指が止まったまま、20分固まっていた日もありました。
「たった一言の投稿に、なぜそこまで」と思われるかもしれません。でも強迫性障害の「もしかしたら」には、確率の話が通じません。0.1%の「かもしれない」が、頭の中では100%の顔をして居座ります。
投稿した後も続きます。「やっぱり変な書き方だったかも」と不安になり、公開した記事を何度も開いて読み返す。通知が怖くて、アプリを開いては閉じる。それを延々と繰り返してしまいます。
確認するたびに、安心は訪れます。ただし、もって数分。すぐに次の「もし間違っていたら」が顔を出します。確認は不安を消す薬ではなく次の不安を呼ぶ呼び鈴のようなものだと、今なら分かります。
たった30文字の返信に、30分かかる
返信対応も同じです。いただいたコメントにお礼を一言返すだけなのに、下書きを5回も書き直す。「この絵文字は軽すぎないか」「敬語が硬すぎて壁を作っていないか」。たった30文字の返信に、30分かかることもあります。
資料づくりでも起きます。過去の判決や制度について引用するときは、「間違った情報を広めたらどうしよう」という不安が膨らんで、同じ出典を何度も確認し直してしまいます。
「これだけ確認したのだから大丈夫」と思えたら、どんなに楽でしょう。でも僕の頭は、「これだけ確認しても不安なのだから、まだ足りない」と逆向きに計算してしまいます。
「正しく伝えなければ」が、確認を終わらせてくれない
批判的なコメントをもらった日も、大変なのは実は、コメントの中身ではありません。それを材料に、僕の脳が始める「検証」のほうです。その一文が頭の中で勝手に再生され、お風呂でも布団の中でも何度でも戻ってくる。「どう返信するのが正しかったのか」と、終わりのない反芻が始まります。
反論の下書きを頭の中で何通りも作っては、どれも送らずに消す。その脳内会議だけで、半日が終わってしまう日もありました。
批判のすべてが悪意ではないことも、頭では分かっています。それでも、悪意かどうかを仕分けする作業そのものが、僕の確認のスイッチを押してしまいます。
厄介なのは、同性婚というテーマそのものが、僕の症状と相性が悪いことです。当事者の人生に関わる話だから、間違えたくない。中途半端な知識で書けば、かえって迷惑をかけるかもしれない。
そう真剣に思えば思うほど、確認は増えていきます。真剣だからこそ確認が終わらなくなり、苦しくなるという構造が、僕の中にはあるのです。
同性婚へのアンチコメントは、強迫性障害に比べれば「楽勝」です
ここまで読んで、「アンチコメントに傷ついて折れそうなんだろうな」と思われたかもしれません。でも正直に言うと、違うんです。
たくさん届くアンチコメントそのものは、僕にとって「楽勝」です。もちろん、気持ちのいいものではありません。それでも、強迫性障害のつらさと比べたら、比べものにならないほど楽なんです。
アンチコメントは、ブロックもミュートもできます。画面を閉じれば、少なくとも目の前からは消えます。でも僕の強迫性障害は、ブロックできません。ミュートもできません。24時間、頭の中に住んでいます。
外から来る悪意より、内側から湧いてくる「もし間違っていたら」のほうが、ずっと手強い。僕が毎日戦っている相手はアンチではなく、自分の脳です。
「アンチに負けないで」と心配してもらうたび、ありがたく思いながら、心の中で少しだけ訂正しています。僕を眠らせないのはアンチではなく、症状のほうなんです、と。だからこの後にお話しする「折れそうになった瞬間」も、犯人はぜんぶアンチではなく、僕の脳です。
念のため、書き添えます。アンチコメントに深く傷つく人が弱い、という話ではまったくありません。何がいちばんつらいかは、人によって違います。僕の場合はたまたま、いちばん手強い相手が自分の脳だった。それだけの話です。
同性婚活動の中で、心が折れそうになった3つの瞬間

ここからは、特に忘れられない3つの場面の話をさせてください。思い出すと、今でも少し胸がざわつきます。
同性婚の投稿に、想定外の反応が集まった夜
ある投稿に、普段よりずっと多くの反応が集まったことがありました。共感の声も多かった一方で、否定的なコメントも一気に流れ込んできました。通知の数字が増えるたび、心臓がきゅっと縮むような感覚がありました。
意外だったのは、否定の言葉を読んだ瞬間の感想が「あ、こんなものか」だったことです。言葉そのものは、思ったほど刺さりませんでした。
大変だったのはそこからです。僕の脳が、その夜を「検証の夜」に変えました。「当事者だから感情的になっている」という趣旨の言葉たちを、僕は何度も読み返しました。傷ついたからではなく、確認せずにいられないからです。
事実誤認はなかったか。表現は正確だったか。反論すべきか、無視すべきか。同じ会議が頭の中を何百周もして、その夜はほとんど眠れませんでした。
「もう見るのをやめよう」と決めては、5分後にまた画面をつける。朝までそれを繰り返しました。いま思えば、あの夜の僕に必要だったのは、反論の言葉ではなく、画面を閉じてもいいという許可でした。
翌朝、洗面所の鏡に映る自分に、ふと言われた気がしました。「そんなにしんどいなら、もうやめたら?」。アンチに傷ついたからではなくこの止まらない確認と、この先もずっと付き合っていくのかと思ったら、目の前が少し暗くなったのです。
それでも投稿を消さずにいられたのは、批判の間に挟まっていた「救われました」という短いコメントのおかげです。脳が拾い上げる材料を、否定の言葉からこの一言に置き換える。あの夜の僕にできた、唯一の工夫でした。
同性婚の大きなニュースの日に、動けなかった
同性婚に関する大きなニュースが流れた日のことも忘れられません。タイムラインでは、たくさんの人が次々と声を上げていました。解説する人、思いを語る人、拡散する人。「今こそ発信すべき時だ」と、僕も頭では思いました。
なのに、体が動きませんでした。今日書かなきゃ意味がない。明日では遅い。焦りばかりが膨らんでいくのに、指は一文字も進みません。スマホを握ったまま、気づけば夕方になっていました。
下書き画面を開いたまま、書いては消し、書いては消し。「この表現は正確か」「今この空気で出していいのか」。確認の渦に飲み込まれて、結局その日は何も投稿できませんでした。
「あなたの言葉を待っている人がいる」。以前もらったそんなメッセージさえ、その日はプレッシャーの側に回りました。
布団の中で、大事な日に何もできなかった自分を責め続けました。その夜の僕は活動する資格なんてないんじゃないかと、本気で思っていました。
数日たって、ようやく短い投稿をひとつ出せました。ほっとしたのもつかの間、今度は「遅すぎた」とまた自分を責めました。当時の僕には、「それでも出せた」と認めてあげる余裕がありませんでした。
あの日できなかったことを、今でも時々思い出します。でも、あの日できなかった僕がいたから、この記事を書こうと思えたのだとも思います。
眩しい誰かと、比べてしまった日々
一番じわじわとこたえたのは、劇的な出来事ではなく、日常の中の比較でした。同じように同性婚について発信している人たちが、毎日堂々と声を上げているように見えたのです。イベントに立つ人、メディアで語る人、途切れずに投稿し続ける人。その姿は本当に心強くて、尊敬しかありません。
それなのに、気づくと「それに比べて僕は」が始まってしまう。数日投稿できなかっただけで「サボっている」と自分を責め、休んでいる間も罪悪感が積もっていく。誰かの輝きが、そのまま自分を殴る棒になっていました。
その時期は、タイムラインを開くこと自体が、自分を傷つける行為みたいになっていました。それでも「見ない」という選択ができない。情報を追い続けることが当事者の義務だと、どこかで思い込んでいたからです。
僕なんかが発信する意味はあるのか。あの頃は、本気でそう思っていました。
いま振り返れば、あれは怠けではなく、心が限界のサインを出していただけでした。でも渦中にいるときは、それが見えませんでした。
僕が同性婚活動を続ける一番の理由は、将来の子どもたちのため

折れそうになりながら、それでも僕が発信をやめない一番の理由。それは、将来生まれてくる子どもたちに、今の僕と同じ思いを味わってほしくないからです。立派な使命感というより、もっと個人的で、もっと切実な理由です。
僕と同じように同性を好きになる子は、これからも生まれてくる
これから生まれてくる子どもたちの中にも、僕と同じように同性を好きになる子は必ずいます。誰かが選んだわけでも、育て方や環境のせいでもなく、ただ自然にそうである。それだけのことです。
学校の教室を思い出します。あの頃の僕は、自分の気持ちに名前をつけることもできず、「いつかバレたらどうしよう」とだけ思っていました。どの教室にもどの町にもあのときの僕と同じ子がきっといるはずです。
その子たちは、制度の議論も、判決のニュースも知りません。ただ、好きになった人と生きていける社会かどうかだけを、いつか肌で知ることになります。
あの頃の僕に届く言葉を、僕はまだ持っていません。でも、これから生まれてくる子には、言葉よりも確かな制度を手渡せる可能性があります。
その子が大人になって、誰かを心から好きになったとき。「同性だから結婚できない」という現実がまだこの国に残っていたら、その子は僕と同じ痛みをもう一度なぞることになります。
僕はそれが、どうしても嫌なんです。
「この痛みは僕たちで最後にしたい」という願い
正直に言えば、僕自身が制度の恩恵を受けられる日が来るのかは、わかりません。それでも構わない、とすら思っています。
好きな人と結婚できない痛みを知る世代は僕たちで最後にしたいと、心から思っています。将来の子どもたちには、「昔はそうだったらしいよ」と歴史の授業で聞くような話になっていてほしいのです。
同性婚を求める活動は、よく「自分たちの権利のための闘い」と説明されます。もちろんそれも本当です。でも僕の実感は少し違って、これはまだ出会っていない未来の家族への、先回りの贈り物のような活動です。
誤解しないでほしいのですが、「子どもたちのため」は、今を生きる当事者の権利が後回しでいいという意味ではありません。今日結婚したい人が今日できる社会は、そのまま未来の子どもたちの景色になります。今と未来は、同じ一本の道の上にあります。
折れそうな夜、僕は想像します。何十年か先、この記事を読んだ誰かの子どもが、当たり前みたいな顔で結婚式の招待状を送ってくる未来を。その想像だけで、もう少しだけ続けようと思えるのです。
この願いは、強迫性障害が僕からたくさんの時間を奪っていった後も、不思議と残り続けました。だから僕は、何度でも戻ってきます。
心を守りながら同性婚の発信を続ける5つの工夫

理由があっても、心が壊れてしまっては続けられません。ここからは、僕が少しずつ増やしてきた、心を守る工夫の話です。
「ここまでやったら手を離す」という小さなルール
まず効いたのは、確認に「手順の終わり」を決めることでした。僕の場合は、こんなルールです。
- 投稿前の見直しは、声に出して2回まで。読み終えたらそのまま投稿する
- 投稿後の30分は、スマホを別の部屋に置く
- 批判的なコメントには、その日のうちに返信しない。一晩置いて考える
- 寝る前の1時間は、同性婚関連の情報から離れる
- 判決や制度など数字の引用は、信頼できる資料で1回確認したら、それ以上は戻らない
今でも守れない日はあります。それでも、ルールがあるだけで「戻ってくる場所」ができました。
大事なのは、破った日に自分を責めないところまでをセットにしておくことです。ルールは僕を縛る鎖ではなく、確認の渦にのまれたときに戻ってくるための目印だからです。
ルールの中身は、あなた仕様でかまいません。大事なのは、確認の「終わり」を自分で決めておくことです。
「完璧じゃない投稿」を世に出す練習
「完璧じゃなくてもいい」と頭で唱えるだけでは、僕には効きませんでした。効いたのは練習です。
専門家の力も借りながら、不安が残ったまま投稿する練習を少しずつ重ねました。最初は軽い近況の投稿から。胸がざわざわしたまま投稿して、「何も起きない」を体に覚えさせていきました。
このとき支えになったのが、不安を数字で眺めるという方法でした。投稿直後は100だった不安が、夕方には70になり、寝る頃には40になっている。不安は消せなくても時間とともに通り過ぎていくものだと、体で知ることができました。
あるとき、確認を2回でやめた投稿に「わかりやすかった」というコメントがつきました。20回確認した投稿との差は、読む人にはほとんど見えないのかもしれない。そう思えたことが、はっきりとした転機になりました。
今も、不安がゼロで投稿できる日はほとんどありません。それでも「不安なまま出せた」という経験が、少しずつ僕の足場になっています。
念のために書き添えると、この練習を自己流で急ぐことはしませんでした。通院先で相談しながら、自分の症状に合わせて少しずつ、が僕には合っていました。
歌詞を書いて、感情に居場所をつくる
もうひとつ、僕を支えているのが創作です。僕は歌詞を書くのですが、活動の中で行き場をなくした感情を、歌詞に逃がすことがあります。
投稿にはできない弱音も、反論できなかった悔しさも、歌詞の中でなら言葉にしていい。「間違うな」と締め付けてくる世界の外に、間違いという概念がない世界をひとつ持っておく。これが、思った以上に効きます。
同性婚を願う気持ちをそのまま歌詞にすることもあれば、ただの弱音にしかならない日もあります。うまく書けたかは、どうでもいいんです。行き場のない感情に「ここにいていいよ」と席を用意すること自体に、意味がありました。
同じ痛みを知る人たちとの、ゆるいつながり
同じようにメンタルヘルスと付き合いながら活動や発信をしている人の存在にも、何度も救われました。「今週は休みます」と宣言して、ちゃんと休む人。ペースを落としても、いなくならない人。
頑張り方の見本は世の中にあふれているのに、休み方の見本はなかなか見つかりません。だからこそ、休むことを隠さない人の姿は、それだけで誰かの「休んでいい」という許可証になるのだと思います。
「無理しないでね」と言い合える相手が数人いるだけで、活動の景色は変わります。
「やめてもいい」と決めたら、続けられるようになった
そして一番大きかったのは、「活動をやめる」という選択肢を自分に許可したことです。逆説的ですが、やめてはいけないと思っていた頃のほうが、ずっとやめたかった。やめてもいいと自分に許可を出した日から、不思議と続けられるようになったのです。
「やめてもいい」と「続けたい理由がある」は、矛盾しません。義務を手放したとき手元に残ったのは願いだけでした。将来の子どもたちのためにという気持ちは、休んでいる間も消えませんでした。
義務ではなく、選択。そう思えるまでには、通院と、信頼できる人たちの理解が支えになりました。
弱さを抱えたまま続ける同性婚活動は、それだけで誰かの支えになる

ここまで、僕の症状と、折れかけた瞬間と、理由と、工夫を書いてきました。最後にひとつ、伝えたいことがあります。
完璧じゃない続け方は、恥ずかしいものではありません。休みながら、立ち止まりながら続けている姿は、同じようにしんどさを抱える誰かの背中を、そっと支えるものになります。
比較の呪いが少しゆるんだのは、「持ち場」という考え方を知ってからでした。ステージで話す人がいて、記事を書く人がいて、そっと「いいね」を押す人がいる。持ち場が違うだけで、向いている方向は同じ。今はそう思えるようになりました。
強さで引っ張る人がいて、データで語る人がいて、弱さを見せながら細く続ける人もいる。僕は声の上げ方が多様であるほど、同性婚を願う声は途切れにくくなると思っています。
強迫性障害は、僕から確認の時間を奪い、眠れない夜を連れてきました。皮肉なことに、アンチコメントを楽勝だと思えるのも、それより手強い相手と毎日向き合っているからかもしれません。
それでも、この病気があったから書ける記事が、確かにあります。完璧になれない人間の続け方を、僕は身をもって試し続けているからです。
この記事に、いつもの判決や統計の話はほとんど出てきません。数字では伝えられない「続け方」の話もまた、同性婚を願う声を絶やさないために必要だと思ったからです。
弱さの開示は、強さの否定ではありません。強い日は強いまま、弱い日は弱いまま声を出せる場所を、少しずつ広げていきたい。そう思っています。
その全部の先に、将来の子どもたちが「好きな人と結婚できるのが当たり前」の社会で生きている。そんな未来を想像しながら、この記事を書きました。
まとめ:無理に頑張らなくても、同性婚を願っていい
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。最後に、この記事で伝えたかったことをまとめます。
- 強迫性障害の確認や反芻は発信活動と相性が悪い。それでも、付き合い方は見つけられる
- 続けるための鍵は根性ではなく、心を守る小さな工夫と「やめてもいい」という許可
- 続ける理由は人それぞれでいい。僕の場合は、将来の子どもたちに同じ思いをさせたくないから
メンタルヘルスの課題を抱えながらでも、活動は続けられます。ただしそれは「歯を食いしばって続けろ」という意味ではありません。休むことも離れることもやめることも含めて自分に合った続け方を選んでいいという意味です。
声を上げられない日も、タイムラインを見られない日も、あなたは何も間違っていません。無理に頑張らなくていいんです。
もしあなたが同じ当事者で、今日なにもできなかったとしても、それはサボりではなくあなたがあなたを守ったということです。どうかその選択を、責めないであげてください。
休んでいる間も、願いは消えません。だから安心して、休んでください。
よかったら、あなたの話も、コメントで聞かせてください。
- 発信や活動で心が疲れたとき、あなたはどうしていますか?
- この記事を読んで感じたことがあれば、一言でも嬉しいです
あなたの工夫が、これを読む誰かの明日のヒントになるかもしれません。
筆者より
この記事は僕個人の体験を綴ったものであり、医学的な助言ではありません。強迫性障害のあらわれ方や合う対処は人それぞれです。
強迫性障害そのものについて正確に知りたいときは、国立精神・神経医療研究センターの「こころの情報サイト」のような公的な情報源をあわせて頼ってみてください(この記事の参考資料にも挙げています)。
つらさが続くときは、一人で抱え込まず、専門機関や信頼できる人を頼ることも選択肢に入れてあげてください。専門的な支援とつながるか迷っているなら、その一歩は弱さではなく、続けるための立派な工夫のひとつです。
この記事が、誰かの支えになれば嬉しいです。
参考資料
- 国立精神・神経医療研究センター「こころの情報サイト」
- Marriage For All Japan(結婚の自由をすべての人に)


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